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アラサー営業マンの勉強ブログ。

自己分析 〜幼少期編(前)〜

自己分析企画の第2回目!
今回は幼少期の前編についてです!
よろしくお願いします!!


?幼少期について

【生まれたときの両親の感想】
山田家の第一子が誕生。2920gの男の子。ちょっと小さいという印象を受けたらしい。
生後すぐに黄疸が発症。母と一緒に退院することはできなかった。
初めての子供ということもあり、すごく心配したそうだ。
黄疸の治療のため、紫外線を放射する。だからほっぺたが真っ赤だった。
眼を保護するために絆創膏をはったため、その痕がくっきり残っていたようだ。
両親の血液型の相性が悪いと、稀に発症するらしい。
母は母乳を届けるために、退院後も病院に通っていた。
やっぱり愛されていたんだなぁ。
今の今までこんなことを知る由もなかったけれど、
そんなところにこそ愛があるんだろうな。
両親に感謝しているよ。

【幼少期の家・暮らし】
当時の家は、小田原市の小さなアパートだった。
6畳と4畳半の2部屋の城で僕は育った。
正直、僕はこの頃の記憶があいまいで、ほとんど覚えていない。

僕はとにかく発育が遅かった。
寝返りが打てるようになるのも遅く、1歳を過ぎても歩けなかった。
ある日、病院での発育検査にひっかかり、リハビリ・訓練施設のようなものに行くことに。
しかしそこは主に障害児の子供達が訓練する施設だった。
その光景を見た母は、「もう二度と行かない!!」と激怒し、頭を悩ませていたという。

これを聞いたときは僕もびっくりしてしまった。
歩くのに苦労していた僕が、後に陸上部に入って毎日毎日走り回っていたのだから。
こんなところにも、自分のルーツを知るきっかけのようなものもあるのだろうか。
昔の僕と対面したような気がして、ちょっと不思議な感覚に陥る。

あとは僕はとにかくよく吐いていた。
何かにつけてよく泣く僕を見ても原因がわからない両親は、
最終的にはおなか空いているのだろうと判断し、
しょっちゅう食事を与えていたらしい。
そのせいで常に僕がおなかがいっぱいだったのか、よく戻していたらしい・・・

他には、夜泣きが激しかった。
当時車が大好きだったらしく、それだけが唯一の対策手段だった。
なぜか車に乗せると泣き止むため、連日連夜深夜のドライブを繰り返していた。

ところが後に極度の乗り物酔い患うことになり、車は嫌いになってしまうのだが、
これはもう少しあとのお話。
ホントに過去と関係があるのかないのか(笑)

【近所の幼馴染との思い出】南足柄市に引っ越してきた後、三姉妹のお隣さんによく遊んでもらっていた。
長女はとってもしっかりもの。頭もよく、まさにお姉さん。僕より4つ上。
次女はすごく面倒見がよい。いつでもどこでも誰とでも仲良くなれる不思議なオーラの持ち主。一つ年上。
三女は元気っ子。ちょっとわがままだけど、太陽みたい。ムードメーカー。3つ年下。
いっつも仲良し三姉妹は近所でも評判だった。
この子達を中心に、毎日毎日遊んでいた。
おままごとやお人形さんごっこがメインだったかな。
僕はいつもついていくタイプだった(笑)
それはそれで楽しかったのだけれども。
この三姉妹にはいろいろなことを教わった。
兄弟・友達・家族・・・
とっても感謝しています。

しかしある日、三姉妹の長女が帰らぬ人となる。
交通事故。
これはもう少し後で、僕が小学4年のときのお話。
あまりにも早すぎる死だった。
葬儀での姉妹の泣きじゃくる顔は、今でも脳裏に焼きついている。
その二人の顔が、あの頃の僕の「死」のイメージ。
水面に円状に波紋が広がっていくように、
残された遺族達に悲しみの輪を落としこむもの。「死」とはそんなイメージだった。
そしてお隣さんの家族はがらがらと壊れていってしまう。
この一件が直接の原因かどうかはわからないが、多少なりとも影響はしているだろう。
怖い。死が持つ大きな負のエネルギーがとても怖い。
自分が死ぬよりも、残された家族がつらい思いをするのが嫌だ。
だからたくさん長生きせねば!親より長生きするのは、子供の義務に違いない!!

?小学校について

【先生の思い出】
・好きだった先生
6年の担任だった富川先生。
ピカチュウウルトラマンをこよなく愛する。
僕が最も影響を受けた先生でもある。
僕の人生を変える出会いの最初の一人。
当時学級崩壊を起こしていた僕らのクラスをたった数ヶ月で更正してしまった。
そのやりかたがまたすごい。
朝の1時間目から夕方の6時間目まですべて体育。
それがずーっと続くのだ。
もう悪さができないくらいへろへろにする。
それから授業。みんなばてばて。
でもちょっとずつ体育の授業時間が減っていき、勉強の時間が増えていった。
また、勉強のスタイルもおもしろかった。
教科書を使わない授業を新鮮で、何より、知りたいという知的好奇心を刺激される授業で、
自分からいろんなことを学ぶことができた。
特に先生が力をいれていたのは理科と算数。
理科は必ず実験をして、僕達に語ってくれた。
めだかの実験では、めだかのたまごを透明のフロッピーケースに入れて
各生徒に持たせ、成長する様子を観察させた。
孵化してからは屋上でめだかを飼い、授業のたんびに屋上で大観察会を行った。
めだかの交尾の様子もLIVEで見た。

天体の分野を勉強するときには、
深夜に学校の屋上を開放してくれて、
どでかい天体望遠鏡を持ち出して、天体観測までさせてくれた。
土星の輪を見れたのは感動したなぁ。

僕はこの先生が大好きで、クラブ活動も先生をおっかけて、
「地球ウォッチングクラブ」に入った。
そこでの活動はさらに濃かった。
お正月のたこ作り
望遠鏡作り
バードウォッチング
・・・etc

そうそう、給食も激しかった。
体育でみんなおなかがぺこぺこ。
おかわりして残りがなくなってしまうと、みんなで手分けして、
他のクラスの残りをもらいに行くのだ。
学年も関係なく、給食をゲットするためにあちこち走り回った。
僕は給食欲しさのあまり、何度か弟のクラスにまでたずねたこともあった。
当然弟には嫌がられたのだが(笑)
インフルエンザ等の学級閉鎖のときは食べ放題状態でみんなうはうはだった。
なぜかうちのクラスではほとんど休みは出なかったけど(笑)

給食で忘れない思い出が一つ。
富川先生が僕らのクラスに着任して最初の給食での出来事だった。
5年生のクラスでは、ほぼみんなが残す野菜のサラダ系のメニューは
どうせ残飯になってしまうので、小皿に少なめにする又は盛らないという暗黙の了解があった。
僕はその日給食当番で野菜サラダを皿に盛っていて、
当然のように大量に残る野菜サラダを先生が見て、僕は先生にものすごく怒られた。
そのたくさん残った野菜を泣きながら食べた記憶は今も鮮明に覚えている。
さらにこの話はここで留まらず、父兄の懇談会にまで報告された。
親からは怒られはしなかったが、「野菜サラダ事件」は一時かなり有名になってしまった。

僕が中学〜高校の6年間、陸上をやるきっかけとなったのもこの先生のおかげだ。
当時はぽっちゃり系だった僕が、激しい体育によってシェイプアップされ、
運動に目覚めたのだった。
特に先生の専門だった陸上の練習に魅せられ、その後も続けることになるのである。
ちなみに体育の授業も独創的なものが多かった。

この先生との思い出は語り出したらきりがない。
また隙を見て書き足していこう。
先生、本当に感謝しています
ちなみに、昨年成人式を迎えた僕らは、先生を囲んでおいしいお酒をいただきました♪
絶対同窓会を開くぞ!!感謝の意味をこめて、僕が幹事をやろうかな・・・。

・嫌いな先生
特になし。
先生の嫌いなところはあったが、嫌いな先生はいない。
それは一部であって、全体を嫌うような先生はいなかった。
ステキな学校でした♪

途中だけど、今日はここまで・・・