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アラサー営業マンの勉強ブログ。

自由と責任

今日は珍しく、父と長めの話をした。

父は病院に勤めている。
医師ではなく、臨床検査技師といって、
会社でいうサラリーマンのような存在だと父は昔いっていた。
そして、その勤め先の病院が問題なのだ。
その病院は今噂の社会保険庁の管轄内にある。
社保庁は以前から管轄内の施設等、身売りを始めていた。
そしてとうとう、その病院までもが対象になったらしい。

「仮に買い手がみつかったとしても、定年の近い自分は人件費が高くつくので、
真っ先に切られるだろう。」父は悔しそうに言った。
定年まで、職場にいられない。
退職金すら満額支給される可能性は低い。
そして父は、早めの自立を僕に促した。

前々から危ないとは聞いていたが、ついにこのときがきてしまった。
弟の大学進学が決まったのはつかの間の喜びだった。
僕にはまだ二人の弟がいる。
お金がかかるのはむしろこれから。
僕だけがのんびりしているわけにもいかない。
自分で決めた道とはいえ、ぐらつく自分がいた。
偶有性を求める今の僕の身の振り方を、両親は快く思っていない。
何度も相談したが、すべて衝突している。
両親のいうこともまた真実なため、いつも議論は平行線だ。
わかってる・・・
だからこそ・・・
答えのない議論。難しい。

「負の偶有性」といったところであろうか。
今までは、正の偶有性にばかりフォーカスを当ててきた。
わかってはいたものの、いざ直面してみるとなかなか厳しい。

僕は前向きに考え、「制約が一つ増えただけ」と考えることにした。
ときには制約も必要である。
なんでもありというのは、ときになんにもないのと同じだと考えてしまう。
特に大学を見ていると(笑)
人の寿命や、一日の終わりというものがあるから、人は頑張れるのだ。
だからこそ、日の終わりの夕焼けがあんなにも身に染みるのだと思う。
そう。制約が一つ増えただけなのだ。

自由と責任。
人は自由になろうとすればするほど、責任が重くなる。
日々の生活でも、仕事の中でも。
この偶有性を求める生活にも、それ相応の責任がついてまわることを
あらためて認識させられた。